センセーショナルな発見が相次ぎ、19世紀は科学的発見の黄金時代でした。
歴史上、これほど多くの発見や発明、測定やマッピングが行われたことはありませんでした。
新聞は毎日のように、これら驚くべき発見や革新的な電気機器の登場を伝えていました。
19世紀の終わり頃、電気モーターを搭載した、今でいう路面電車が初めて都市部を走りました。通りや路地は電灯で照らされ、人々はエレベーターを使うようになり、遠方の人に電報を送ったり、写真を撮ったりするなど、日常生活もさまざまに変わっていきました。
このような時代ですから、新たな発見や発明に世間はさほど驚かなくなっていました。ところが、初めて映画が上映された1895年、ヴュルツブルクの物理学教授であるヴィルヘルム・コンラッド・レントゲン博士は、にわかに信じがたい奇妙な現象を発見しました。ロンドンの新聞The Standardは、レントゲン博士の発見について最初に報じ、次のような言葉で記事を締めくっています。『読者の皆さんに伝えたいのは冗談でもインチキでもありません。真面目なドイツ人教授による重大な発見なのです』。
レントゲン博士の重大な発見のニュースは1896年の1月初旬から世界中に広まったものの、当時は受け入れがたいという風向きもありました。新聞では、ヴュルツブルクの教授が新種の「光」を使い、「重りの入った木箱の蓋を開けることなく、中にある重りの写真を撮る」ことに成功したとか、「肉のない」人の手の骨を写し出した、などと報じられました。
報道に戸惑う科学者もいれば、悪ふざけだと突っぱねる科学者もいました。物理学者でレントゲン博士の友人であるオットー・ランマー教授でさえ、最初はレントゲン博士の発見に疑念を抱き、「彼はたいていの場合、思慮深く賢明です。でも、まだ今はカーニバルの時期ではありませんね」と答えました。
1895年11月8日、レントゲン博士が「X線」と呼ぶものを初めて観察したとき、最初は自分が「インチキの犠牲者」なのでは、とさえ感じていました。ガラス管を使った気体放電の実験中、たまたま近くに置いてあったクリスタルが暗い実験室内で緑色に光りはじめました。ガラス管は黒い紙に包まれていたため、光が発生した原因がガラス管にあるとは考えられません。
博士はクリスタルとガラス管との間に木材、紙のノート、1,000ページ分の厚さの本を置いてみましたが、どれもその神秘的な光線を止めることはできませんでした。ついに博士は光線の中に手を差し込んでみました。それは、博士の生涯のうち、おそらく最も興奮すべき発見でした。スクリーン上に、自分の手、しかも骨の影を見たのです!
博士は当初、この発見を誰にも話さずにいました。7週間もの間、誰の目にも触れず研究室に閉じこもりっきりで、誰もそこで何が起こっているのか知りませんでした。博士は自分の助手さえ入れないようにドアに鍵をかけ、妻ベルタはのちに、この期間を「ひどい時期」と形容しています。というのも、博士は毎晩遅くに不機嫌な様子で帰宅し、ほとんど話すこともなく食事をし、すぐに研究室に戻っていったのです。その後、博士は研究室にベッドを持ち込むまでになり、妻は博士の姿を見ずに過ごすことが何日もありました。何か問題でもあるのかと尋ねても、答えはありません。ついにベルタが懇願したら、博士はこう答えたのです。「もし何をしているかが人に知られたら『レントゲンはおかしくなったに違いない』と言うはずだ」。
当時、研究室で何が起こっているのかを周りの人に理解してもらうのは難しかったでしょう。レントゲン博士は、木製のスプールを「X線撮影」し、内部にあるワイヤーの写真を現像したり、金属ケースに入ったコンパスの指す方向を読み取ったりしたほか、研究室の隣の部屋に蛍光板を設置し、その蛍光板を通じて閉じたドアからものを見るという実験を繰り返していました。
1968年以降のレントゲン博士の実験の様子の一部をビデオ(YouTube/英語)でもご覧いただけます。
1895年の後半、7週間の精力的な作業の後、X線についてほかの誰にも語ることなく、レントゲン博士はこの発見を公表すると決めました。博士は「On a New Kind of Rays(新種の光線)」と題する論文を何枚もの "影の写真" 入りで執筆しました。写真の世界からインスピレーションを得て、博士は実験で得た画像を「影の写真」と名付け、発見の証拠としました。証拠の中で最も話題をさらったのは、1895年12月22日に撮影されたものです。
妻ベルタに手を写真台の上に置くように頼み、15分間「X線撮影」をしました。それが、博士が残した写真の中でも世界的に有名となった、薬指の指輪が浮いてるように見える妻ベルタの手の写真です。
科学界が当初見せていた懐疑的な態度は、あることがきっかけですぐに軟化していきました。というのも、当時の物理の実験室のほとんどが、レントゲン博士の研究室と同じような設備だったため、レントゲン博士の実験は他の学者たちも容易に再現できたり、実証できたりしたのです。そのため、1896年1月半ば頃には世界中に「X線マニア」が多く生まれました。財布やミイラ、家具、人体など、想像できるありとあらゆるものがX線で撮影されたのです。
X線技術は数年のうちに急速な発展を遂げ、1905年に開かれた第一回ドイツ放射線学会(German Radiology Congress)で代表者が、X線を「医学の全分野で不可欠なツール」であると述べました。レントゲン博士でさえ、その後の開発に驚きと興奮を隠せずにいました。博士は放射線学会に電報を送り、次のように伝えました。
「先人たちの研究のおかげで私はX線の発見ができました。それに対する喜びと称賛の思いであふれています」。
初めの10年だけでも、X線は数々の進歩を遂げ、幅広く応用されてきました。その事自体が驚きですが、実際は、X線の技術開発はまだ始まったばかりでした…